旧ホームページ(COACH SHUJI.com)で掲載をしていましたコーチについて語る(Share Your Story)をこちらで再掲載いたします。
チーム名、肩書、役職等は掲載当時のものです。
友川かずき / フォークシンガー、画家
小野秀二写真集「SHUJI ONO MEMORIAL」より抜粋
小野秀二君へ
小野秀二の写真集が出版されるから何か一文を書くようにと、能代工業高校バスケットボール部時代の私の二年後輩にあたる新日鉄の小玉一人から電話があった。
小野秀二とは彼が中学生の時、縁あって一年間そのチームのコーチをやらせていただいたことは確かにあるにはあるが、つたない私個人の熱情に付き合わせてしまった、とでも言う以外何ひとつ今ここに記せるものも見当たらないのである。 ましてその後の彼は、高校、大学、実業団と一貫して各々のチームのスターガードであり続け、現在(1988年当時)も全日本のガードを務めている男である。
私みたいな風来坊より、もっとふさわしい人が沢山居るだろうに、と固辞したのだが、小玉も社会に出てよほど揉まれているのであろう、淡々と水のようにシャープないつもの小玉の良気質がどこかへ影をひそめ、今回は妙に執拗なのである。 自分のことのように、である。 考えてみるとこの二人とは、年に2、3度は私が高校を卒業してからもずっと会っているような気がする。それは、何かのバスケット大会の会場であったり、私のコンサートの場であったりする。
秀二は小玉の4つか5つ後輩のはずで、実業団も別々であり、つまり同じチームでプレイしたことがないはずなのに、私が見かける時はいつも一緒である。 小玉が秀二の姉や兄とも親しいことを思えば当然といえば当然で、また単なる気が合う仲間というのもよくある話だから、そういう風に納得すれば済むようなことなのだが、何故かやはりこの二人に私は因縁みたいなものを感じてしまうのである。
私が高校3年のマネージャーをしていた時の1年生が小玉で、小玉と私は早朝に誰もまだ居ない体育館で1年間もの間汗を流したものである。尤も汗を流したのは小玉の方だけであるが。私はチームのマネージャーで彼は有望な新人、というだけの関係なのであるが、その後の彼の出場するゲームでは、いつの間にか彼の動きだけを無意識のうちにも凝視している自分に気付き、妙な気持になったものである。
秀二に対しても同じなのだが、その当時の私のやったことと言えば、すべて恩師の加藤廣志先生のモノマネで、モノマネは所詮モノマネでしかなかったのであるが、彼らがいちばんはやくそれを察知(?)し、というか無視し、その後栄光の道を歩んでくれたことを、複雑な気持ではあるが、ありがたいと思っているのである。
高校を卒業してバスケットのコーチとして生涯を送る決心を加藤先生に打ち明けたところ、紹介していただいたのが小野秀二の居た能代一中であった。
私のふがいなさでそれも1年でやめ、東京へ出てあっちこっちふらふらし現在に至っているのであるが、今更ながらに、私にとってのあの1年は何だったのだろうと思う時がある。いつだったかその時のチームメートの6、7人が秀二を含めて私の川崎のアパートで呑み明かしたことがある。
夫々に談論風発ユメを語るにつけ、私は突然、ああこの連中のエネルギーを私はいただいていたに過ぎなかったんだ、と思った。彼らは小さいひ弱な中学生のカラダにエネルギーをたぎらせ、汗を吹きながら私を激励していたんだ、と思い、恥ずかしくて穴があったら入りたい、と瞬時思ったものだ。
いつも夜も昼もなく酒気帯びている私にはとても秀二の写真集などは目映すぎて正規出来そうにもないが、先日その写真集のゲラを呑み店で見せていただきパラパラ繰っていて一つ思い出した言葉がある。
ケモノ、という言葉である。
それは秀二を私が最初みた時にも思った言葉であり、それだけはモノマネではなく私が内心で感じた言葉である。何かを突き射すようにギラギラと炎えた眼、欲したものを手にするには命のひとつふたつ惜しくない、というように訴える眼、それはまさに、ケモノのそれ、である。日常的に出会っているとついつい忘れていたが、写真の中にあるコート場の彼は今だにそれなのである。
残念ながら、大学や実業団のなかにはあまり見かけない眼なのである。個人の資質と言ってしまえばそれまでだろうが、何か平和に、ゲームをゲームし、ルールをルールしているというか、凡そ相手を奪る、というだいご味からほど遠いように感ずる今日この頃なのである。とまれ、小野秀二の写真集である。秀二のことをいろいろ思い巡らせていたら、ついぞ私にも忘れかけていた、ケモノの血の一滴が流れ出したみたいである。
秀二は今、ある大学のコーチをしているらしい。(1989年当時)勝たなくてもいい、とは私は言わない。 それじゃ君がやらなくても誰かがやればいいし、同好会で充分だ。勝って当たり前であり、どのように勝つかが問題なのである。
目的意識のない貧困なスポーツなど徒労にすぎない。秀二ガンバレ。
年甲斐もなく力んだりセンチになったりする男も観客の中に居るぞ。
ケモノにとって負け、とは、死にほかならないぞ。
海保宣生 / 元Jリーグ鹿島アントラーズ 常務取締役、現山形県スポーツ振興21世紀協会 理事長
(役職は投稿当時2006年のもの)
思えば、秀二との初めての出会いは昭和50年の東京インターハイの時であった。筑波大学での活躍も期待通りのもので、日本のリーディングガードに向けて順調に成長していた。
当時、住友金属の監督であった私は、昭和54年に初めて秀二と話し合う機会を得た。私の目的は、勿論リクルートであった。その時の私は、住友金属がバスケットボール部をどの様な考え方で運営しているのか、チームとしての事情はどの様な状態なのか、等々について熱心に説明した。
その時彼は、就職先を選択するに際しての自分の考えをはっきり持っていて、それを私に話してくれた。その内容は、自分の将来の希望は、教師になって若い子供達にバスケットボールの技術を教え、夢を与える事である。しかし一方では、プレイヤーとしての自分を極めてみたい。全日本チームで日の丸を胸に、アジアで、世界で、精一杯プレーしてみたい。そのために、プレーヤーとして活躍できる間は、実業団チームに籍を置くことにしたい...と。
能代の実家に伺い、加藤先生(前能代工業高校監督)、御両親、姉上とも会い、秀二が住金にとっていかに必要な選手であるか...について夢中で説明した。だから、彼が住金を選んだことが判った時には飛び上がって喜んだものだ。
入社後は、優勝を目指した日頃の練習で、共に苦しみ、また職場での悩みも互いに相談し合った。そして念願の優勝を果たした時には、共に喜び酒を汲み交わした。彼のプレーヤーとしての最後のゲームとなったABCでの中国戦のあと、バンコクのホテルで深夜まで話し合った。その時の秀二は、負けてソウル(五輪)への出場を断たれた悔しさよりも、自分のもうひとつの夢であった、プレーヤーとして努め尽くした満足感、安堵感に満ち溢れていた様に思われた。
私は、プレーヤー小野秀二の多くの部分を見てきた一人と自負しているが、その間、彼は何事に対しても俊敏で、果敢に、そしてフェアーに取り組んできた。その姿こそが人々に感動を与えるのであろう。
TAKAMI MATSUBARA / 元月刊バスケットボール編集部
小野秀二写真集「SHUJI ONO MEMORIAL」より抜粋
秀二君への手紙
夏といえば、私には忘れられない思い出があります。それは、昭和50年(1975年)の8月、夏の暑い午後でした。当時、私は大学4年生、ひょんなことから創刊間もない月刊バスケットボールのお手伝いをするようになり、その日も東京インターハイの取材をするため、目白にある学習院大学体育館に出かけたのです。
私に任された企画は、当時「超高校級」といわれていた小野秀二(能代工)と野口孝治(相工大附 / 現、湘南工科大学附属)の対決の記事。能代工業は1年前の福岡インターハイにおいて相工大附に延長の末敗れており、この日の一戦は、いわば1年前の雪辱戦。加えて3年生としてチームを引っぱる2人のガードが超高校級となれば、高校バスケットボールファンの興味も否応なしに高まります。小野、野口(元松下電器)の対決にからめた、能代工、相工大附の対決をドキュメンタリータッチに書いてほしい...というのが編集長からの依頼でした。
ゲームが始まる前、あなた(小野秀二)を体育館の外に呼び出して、短いインタビューをしましたね。覚えていますか?私は何事も忘れっぽい性格なのに、なぜかあのときのことは鮮明に覚えているのです。だって、あのとき、私はあなたに一目惚れしてしまったんですから...笑わないでください。これは本当の話です。
一目見たとき、想像していたよりずっと小柄できゃしゃなことに驚きました。坊主頭で、色が黒くて、手足の長さが目立つ少年...そんな少年に一目惚れしてしまったのは、その目があんまり見事だったからです。私のインタビューに答えるときの、真剣で、ひたむきで、利発そうな目。理由もなく、瞬間、「この子はスゴイ!」と思いました。そして、今でも、このときの直感を、私は自分でほめています。
あの試合は壮絶でした。そして、あのときのあなたのケガ、追いつ追われつの緊迫したムードの中で、あなたが転倒し、足を押さえたまま立ち上がれなかったとき、場内が一瞬シーンと静まりましたね。全ての人が痛みと無念で歪んだあなたの顔を見て、ことばを無くしたのだと思います。チームメイトにかかえられてコートを出て行くあなたの姿を見つめるみんなの胸には、「能代工業は負けるかもしれないな」という思いがよぎったに違いありません。
それだけに、後半も終わりに近づいたとき、あなたが再びコートに戻ってきたときの驚き!立ち上がり、ベンチの加藤先生(加藤廣志 / 前能代工業バスケットボール部監督)のそばに駆け寄ったあなたを見て、加藤先生は何度も何度もうなずき、あなたの肩をポンとたたいてコートに送り出しました。私はあのときの加藤先生の顔が忘れられません。驚きと安堵と興奮と...そして、あなたへの信頼が満面にあふれていました。
あの壮絶な試合は、延長にもつれこんだ末、能代工の勝利で幕を閉じました。もちろん、あなたひとりで勝ったわけではありません。後に法政からいすゞに進んだ舟木君、同じく法政に行った田口君、中京大へ進んだ見上君、日立電線へ入社した大西君、清水君といった3年生に、日体大から日鉱、そして全日本選手にもなった内海君(現WJBLジャパンエナジー ヘッド・コーチ) 、パワーフルさでは他を圧倒していた長崎君の2年生コンビ...とあのときの能代工には本当にすばらしい選手がいっぱいいました。
当時、加藤先生の口ぐせであった「秋田のチームに派手さはいらない」のことばどおり、地味ながら基礎のしっかりした安定感のあるチーム、大型化を目指す余り、どこか大味になりがちな高校バスケットボール界の中にあって、キメの細かい、ていねいなプレーを見せてくれ、そして、何よりも一生懸命な選手たちの姿に清々しさがあふれていたチーム、それがあのときの能代工でした。そしてその中心にあなたがいたのです。
聞いたところによると、「加藤先生は常日頃から ”秋田のチームに派手さはいらない” とおしゃっていますが、小野君のプレーは十分派手ですね」と、いった記者のインタビューに答えて、加藤先生は「そうですね、小野は例外かもしれません」と、冗談めかしくいわれていたそうですが、それだけあなたのプレーには見る者を魅きつけるあでやかさがあったのです。
でもそれは「派手」ということばではなく、「華」という表現がぴったりでした。小野秀二のプレーには「華」があったのです。そして、あなたのことを知るうちに、その「華」の裏側に、人一倍の努力があったことを私は知りました。
その年の秋だったか...、全日本男子チームの取材で宿舎を訪れ、選手全員にアンケートをとったことがあります。「あなたの尊敬する人は?」のクエッションに対し、ガードの阿部選手(阿部成章
/ ミュンヘン、モントリオール五輪代表)が、「能代工の小野秀二君」と答えました。「えっ?」と、驚くと、「だって、彼はうまいもん。天性のものがあるし、ひたむきにプレーするし...」阿部さんはまじめな顔でいいます。
当時、日本のバスケットボール界を代表する名選手といわれた阿部さんが、尊敬する人に高校生選手の名をあげたのです。いくらかの茶目っ気が含まれていたにせよ、今思えば、阿部さんは、そのときすでに、あなたの中にある選手としてのすばらしく大きな可能性を感じとっていたのかもしれません。
やがて能代工から筑波大に進み、あなた(小野秀二)の活躍の場が広がると、私が耳にする、「小野秀二を賞賛する声」も次第に大きくなってきました。その中でも忘れられないのは、ハローケイジャーというページで、取材に訪れた兼松さんが、好きな選手にあなたの名をあげ、「とにかくディフェンスがすばらしいですよね。彼を見ていると守りながら攻めているという感じがします。」といわれたことばです。
兼松さんは、「くまそ」というバスケットボールチームの代表で、自他ともに認めるバスキチ、自宅の屋上にバスケットコートを作り、暇さえあれば、国内はもちろん、アメリカまでゲームを見に行くほどの人。当然、内外を問わず、多くのプレーヤーをナマで見て、その情報量やかなりものであるのに、その中で、たった一人、好きな選手として選んだのが「小野秀二」でした。 「久々にね、見ていて興奮する選手が出てきたなあって気がするんです。」本当にうれしそうにそういった兼松さんのことばに、私も何度も何度もうなずいていました。
「小野秀二が出てくると、何か必ずやってくれそうな気がする」−というのも、観客席で私がよく耳にしたことばです。 特に全日本チームに入って、外国チームと対戦するときは、たとえそれが負けゲームであっても、「小野がコートに出れば、何かをやってムードを変えてくれる」という思いがファンの胸にはいつもあったようです。そんな思いを裏切ることなく、あなたはいつも果敢なプレーを見せてくれました。
79年の6月に来日したポートランド大のジャック・アビーナヘッドコーチ(Jack Avina: 1979年ユニバーシアード・アメリカ代表チーム、A.コーチ)は、「うちのチームに速さで対抗できるのは小野!」といい、そのあとキリン・ワールド・バスケットボール大会で対戦したアラバマ大のC.M.ニュートンヘッドコーチ(C.M. Newton: アメリカ・バスケットボール殿堂入りのコーチ)も、印象に残った選手として小野秀二の名をあげました。 そして、時を同じくして、キリン・バスケットボール教室の講師として来日したケンタッキー大のジョー.B.ホールヘッドコーチ(Joe. B. Hall: 1978年NCAAチャンピオンチーム・コーチ)に至っては、常に向かって行くあなたのプレー姿をすっかり気に入り、「うちの娘の婿にしたいくらい」といったほどです。
176cmという、日本でも小柄な部類に入るプレーヤーに対し、アメリカを代表する大学チームの3人のヘッドコーチは、異口同音に、「小野はすばらしい」といいました。本物だからこそ本物がわかるのです。3人のヘッドコーチのことばの中に、地道な努力で着実に成長していくあなたの姿を感じました。でも、常に前向きで、逃げることを知らないあなただからこそ、ケガに泣かされることも度々でしたね。特に右ヒザの故障は、住金に入ってからも何度もあなたを泣かせたことと思います。
能代工→筑波大→住金と、一見、順風満帆に見えるあなたのバスケット人生ですが、その陰で、幾度も悩み、苦しんだ日があったことを私は知っています。でも、私の知っている小野秀二は、その度に自分と戦い、励まし、目の前の壁をはい上がっていきました。
現役最後の大会となった昨年のバンコクABCを前に、全日本の小浜元孝ヘッドコーチ(元JBLいすゞ自動車監督)は、あなたを評して、「全日本丸という僕らの船の舵取り役」といいました。「僕のいいたいことを小野は全てわかってくれる。コートの上の彼には全幅の信頼を置いている」と...
残念ながら、ABCでは中国に敗れ、ソウル・オリンピック出場の望みは叶わなかったけれど、全日本選手として、ヘッドコーチから「私が100%信頼できる選手」と明言されたこと、そして、それはとりも直さず、あなたが選手として高い山の頂に立っていることを示しており、その高い山の頂上で、あなたの現役引退の幕が降りたことを、私はたまらなくうれしく思います。
18歳で一目惚れした少年は、自分の素質に溺れることなく、周りの賞賛の声に己れを見失うことなく、一歩づつ確実に大きくなりました。
時おり、コートを走るあなたのひたむきな姿に、なんだかみている私まで一緒になって泣きたいような気持ちになりました。そんな気持ちになったのは、きっと私だけでなく、数えきれないほどおおくのファンが、コートを走るあなたに感動し、励まされ、勇気づけられたはずです。
私は今、つくづく、「小野秀二のいる時代にバスケットが見られてよかったなあ」と思ってしまいます。あなたの成長を、ピークを、そして引退を、ずっとこの目で見つめ続けられたことを、本当に幸せに思っています。
これからは、指導者として、良い選手を育て、秀二スピリットを持つすばらしいチームを作ってください。期待しています。 最後に、心を込めて「長い間、すばらしいプレーをありがとう」
宮崎県 Wakamatsuさん
こんにちは!私は今、ミニバスケットのコーチをしております。
小野コーチとは同じ世代に日本リーグでプレーしていた者です。
旧共同石油(株)のチームでプレーしてました。プレーヤーとしては活躍する事もなく引退しました。中学・高校と控えの選手を経験することなくスタメンとしていましたが、共同石油で初めて控えの選手の気持ちを味わうことが出来ました。今、思えばそれがとても勉強になった!と自分的には思います。
怪我したプレーヤーにかける一言、なにげないコーチからの一言で、選手というのは頑張れる!というのはメチャクチャ怪我の多かった私にはよくわかります。指導しているミニバスケットが全国大会に出場することが決定して、今月27日から千葉に行きます。
宮崎の小林高校では北郷監督に指導を受けて、次は中村監督に教えていただきました、174cmで高校の途中まではセンターだったのですが中村監督にシューターとしてプレーした方がいい!とのアドバイスを受けてからは、外からのシュートを徹底してやりました。その一事が私のバスケットをかえるきっかけになりました。沢山の素晴らしいコーチに恵まれていたことを誇りに思います。小野秀二さんは憧れのかたでした。
私は昨年、子供とバスケットがしたい!それだけで仕事も辞めました。主人からは猛反対をうけましたが全てを投げ出して今、子供達とバスケットをしています。小野コーチ、日本バスケット界のためにますます活躍してください。私の目標は、ジャパンエナジーで活躍できるようなプレーヤーを育てる事です。
神奈川県横浜市 M.I さん
私が高校生のとき、全日本のガードといえば小野秀二さんでした。当時キリンワールドや国際スポーツフェアといった国際試合がある度に、よく部活の仲間と代々木第二体育館に観戦に行きました...
あのころの全日本は北原、岡山、内海、池内、そして小野といった不動のメンバー。それぞれがとても個性的で、海外の強豪チームにも堂々とプレイし、一生懸命にボールを追う姿はまさに憧れでした。中でもいつも精悍な顔つきで、小柄ながら巧みなボール・ハンドリングとリード力で、ゲームを支配していた小野さんが印象的でした。
その後、今から10年以上前になるでしょうか...私が高校バスケットボール界の名門、能代工業を訪れたとき、思いがけずご本人とお会いすることができました。授業中で誰もいない同校の体育館から、バスケットボールの弾む音と、シューズの「キュ、キュ」とした摩擦音が聞こえてきます。誰かと思い体育館の脇からのぞいてみると、昔の全日本のスウェットに身を包んだ小野さんが、汗びっしょりになりながらも黙々と1人で練習をされていました。
高校生のときに見た小野さんとだぶってしまうほど、その姿に変わりはまったくありませんでした!そのころは愛知学泉大学のコーチとして指導に励まれていた小野さんですが、自らのトレーニングも怠らない姿勢はさすがだと感じたものです。そして練習がひと段落すると、気さくに声をかけてくださった小野秀二さん!私にとってはとても大切な思い出になっています。